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個人レッスンの様子 (2) [体験記:音のレッスン(完)]

「音楽のレッスン」と「音のレッスン」

コーラスの練習は区民館の和室を借りて行われています。15名ぐらいのメンバーが参加しています。ある日のこと、遅く来た私は入り口の外で練習の様子を聞いていました。

聞こえてくるのは「歌っている」とは思えない、細い糸のような声、先生の指示も「もっと回転数をあげて」という感じなのです。一般の人にはそれがコーラスの練習とはわからないのではないか、ふとそんな感じがしたのです。

「音楽のレッスン」と「音のレッスン」、レッスンの対象というか素材が「歌」であるという以外は大分違います。

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個人レッスンの様子 (1) [体験記:音のレッスン(完)]

今回は私が受けている個人レッスンの様子をご紹介します。

個人レッスンは多くの人は月1回ペースらしいですが、私は1~2ヶ月に1回程度のペースです。あらかじめ決まった受講可能日・指定日のようなものがあるわけではなく、その都度先生と相談して、次回の予定を決めていく感じです。

レッスンは先生の自宅で行われます。和室にグランドピアノが置かれていて、先生は演奏用椅子、私はピアノの横に用意された椅子に座ります。

最初は先生が用意してくださるお茶を飲みながら、少しお話タイム。音楽の話に限らず、最近読んだ本の話だったり、世間話も交えて情報交換したりしています。意外な先生との共通の関心事項があったりして、話がはずみ楽しい時間です。

そして、「そろそろ始めましょう」の声でレッスン開始です。

課題1:和音を聞いて、その和音名を答える

先生がピアノでスタッカート気味に短く「ドミソ」と弾いたら「CEG」とドイツ語でパッと答え、すぐに次の和音の移り、またパッと答える、それを小気味良いテンポで延々と繰り返していきます。

いきなりドイツ語が出てきてビックリなのですが、それには理由があるそうです。

一つは和音名をなるべく短い名前で呼びたいということ。「CEG」は「ツェ・エー・ゲー」と区切るのではなく、「ツェゲェ」とあたかも1字の音のように発音します。英語ではどうしても1字のように発音できません。それがドイツ語を使う理由の一つです。

もう一つの理由は、音楽の専門的なレッスンを受けていない人でも、学校の音楽教育等の影響で「ドミソ」はこういう和音みたいなイメージができあがっており、それが邪魔ということらしいです。

要するに、音楽のレッスンだからドイツ語でということはまったく無く、単純に機械的にある和音にある名前/ラベルを対応させるのにドイツ語が便利ということにすぎません。

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タグ:耳をひらく

ゆりかごのうた (2) [体験記:音のレッスン(完)]

少し前までの私はこのハーモニーが、ふわーんとして輪郭のはっきりしない音の塊のように聞こえてきて、頭がクラクラしていました。

多くの合唱では(ソプラノとかバスとか)各声部をわりと区別して聞き取れるものですが、このハーモニーは各声部が限りなく混ざり合い、よほど注意深く聞かないと聞き分けるのが難しいのです。それが自然に聞き分けられるような音に対する感覚を育てていくことが「耳をひらく」ことかなという気はしています。

とはいっても、聞く側としては別に聞き分けられることが良い・悪いということではないし、そのような分析的な聞き方をする必要もありません。何も考えずリラックスして心地よく聞いていただくのが一番です。

一方、歌う側はなかなか大変なのです。音のレッスンの中では「周り人の音を聴く」ことを徹底的に仕込まれます。「もっと聴いて」「今、聴いていましたか」とか毎回のように誰かが注意をうけるような感じなのです。

聞いていただいた「ゆりかごのうた」もそのような普段の練習の積み重ねから生まれてきたハーモニーです。皆様は何を感じましたか。

ところで、コンサートでの「風の歌」のハーモニーへの反応は人によりいろいろです。ごくまれではありますが、眠くなったり、涙を流す人もいます。退屈な歌だから、悲しい旋律だからというのとは違うようです。その人にふさわしい形で癒しのエネルギーに包まれているのだと思います。

しかし、歌う側が「癒しのエネルギーを送ってあげよう」というような意図・目的をもって歌うということはありません。もしそのような気持ちで歌うとしたら、それはむしろ雑念の混じった音かもしれないのです。

言い方を変えると、何かの意図や目的を混ぜてしまった音は、おそらく作為的な音となり、人を感動させたり酔わせる音にはなっても、聞いている人の深部にまで響く音にはならない気がします。その意味では目指すのはどこまでも透明でピュアなハーモニーです。

「徹底して周りの人の音を聴く」、これに集中するのがどれだけ難しいことか。私自身は集中することに集中している状態=余裕がない、そんな段階で先は長そうです。

ここから先は今の私には未知の領域なのですが、そういうピュアなものを追求していくと、最後は「意識」とか「エゴ」というテーマに向き合わなくてはならない時がくるようです。

なにやら禅の境地に踏み込みそうな感じですが、そんなことまで考えさせてくれる音のレッスン、奥が深そうです。

ゆりかごのうた (1) [体験記:音のレッスン(完)]



現在、私は鍋島久美子先生という方の「音のレッスン」を受けています。先生の個人レッスンと先生が主宰されている「風の歌」というアマチュアのコーラスグループの練習に参加させていただいています。

今後、特に使い分けない限り、このブログの中では個人レッスンとコーラスの練習をまとめて「音のレッスン」として記事を書いていきます。先生がそういう呼び方をしているのではなく、私の勝手な呼び方に過ぎません。

コーラスのメンバーの中には10年以上鍋島先生に習っているという大先輩もいます。私はというと2011年7月に個人レッスンを開始し、10月から「風の歌」の練習にも参加したばかりです。

練習への参加回数も少ないし、体験記など書くのもおこがましいのかもしれません。しかし、初めだから、未知の世界に触れたばかりだからこそ感じることができる感動や戸惑いというものもあると思います。

そういったものを自分自身の記録として残しておきたいという気持ちが一つ。そして、どなたかこの記事を読んでくださった方が興味をもっていただけたらという願いがもう一つ。これが体験記を書く動機です。

「百文は一聞にしかず」とは言いませんが、1曲だけ「風の歌」のコーラスが公開されているので、それをお聞きください。曲は「ゆりかごのうた」、最近では夏川りみさんが歌っていたりして、ご存知の方も多いことでしょう。

タグ:意識

このカテゴリについて [体験記:音のレッスン(完)]

広い意味で音楽は私の趣味の一つです。聞くことも楽器と戯れることも音楽関係の本を読むことも。そんなこともあり多分ピアノでしょうか、いつか機会があればお稽古事の一つとして習いたいなあとずっと思っていました。

そして、昨年の夏からある先生についてレッスンを受け始めたのです。
何を習い始めたのか。ピアノではありません。何といえばいいのか、適切な表現が見当たらないのです。コーラス、ハーモニーのレッスンというのが練習の内容としては一番近いのですが、それは手段であって本当に目指すものは別にあるようなのです。

「声を出すこと、音を聞くことを通じて本当の自分を発見すること」、これだけではわかりにくいかもしれませんが、今の私はそう理解しています。それで「音のレッスン」としました。

これから、レッスンの様子、そこでの私自身の気づきなどを書いていくつもりです。それらを通じて一人でも多くの方が「美しいハーモニーの世界」に関心をもっていただけると嬉しいです。

なおこれから書いていく内容は先生の公式見解ではなく、あくまである段階での私の理解/解釈にすぎません。その点だけ誤解のないようにお願いします。
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