想念観察 (4) [考察:スピリチュアルなテーマ]
はじめに
想念とはどのようなものか、それらを観察するとはどういうことかを考察してきました。つぎに想念観察の効果、想念観察を続けていくとどうなるのか、その先に何があるのかといったあたりを考えてみます。
「考察:スピリチュアルなテーマ」の中では単に世間で知られている情報を整理してお伝えするということではなく、できるだけ自分なりの実践の中で感じたことや体験してきたことを交えて記事を書いています。ですので、書けることも限られてはいるのですが、皆様の何かの参考になれば幸いです。
想念観察の一番のポイントは感覚器官を通じて知覚した外の世界を観察するのではなく、自分の心というスクリーン上に現れるさまざな思い=想念を観察の対象としている点です。
観察するには何か目的があるはずなのですが、結局のところ、想念観察は何のために行うものなのでしょうか。続けると何か効果や功徳があるのでしょうか。
今回と次回はこの点をテーマにして書いてみます。
「もう一人の自分」という感覚の芽生え
外の世界を観察する場合には「観察対象」と「観察者」を常に意識します。「天体を観測しましょう」と言われれば、観察の対象は夜空の星であり、誰がいつ、どのような方法で観察するのか、そういったことを明確にした上で実際の観察を行うはずです。
一方、内なる世界、つまり自分の心の中を観察する場合には「観察者」という意識はあまりないかもしれません。多分、観察者が自分自身であるということが当たり前すぎるので、意識されないのです。
たとえば、誰かと言い争いをして、相手を傷つけるような言葉を言ってしまったとします。時間が経ってから、「あんなひどいことを言うべきではなかった」と自己反省をするようなことがあったとします。このように自分自身を振り返るということは日常的に行っているはずですが、そこに「観察者」という意識はほとんど無いのではないでしょうか。
想念観察という行為があることを知り、しばらくそれを続けてみて最初に芽生えた感覚は「自分を観察しているもう一人の自分がいる」という不思議な感覚でした。不思議といっても神秘的ということではなく、上に書いた例のように、今まで無意識に行っていた行為を「自分を観察者の立場において、自分自身を観察する行為」として明確に意識するようになったということです。
もし想念観察という言葉と出会わなければ、この「もう一人の自分」という感覚は自分の中に芽生えなかったような気がします。
そして、「もう一人の自分」は何者なのか、これも探求すべき重要なテーマではあるのですが、これについては、また別の記事として考察していくつもりです。
自分の思いのクセ・パターンに気づく
想念観察を続けていくとだんだんと自分というものがわかってきます。
人に「あなたは・・な人ですね」と性格やクセを指摘された経験があると思いますが、人に言われるまでもなく、自分で自分がわかってきます。人間関係で気づかされることが一番多いのですが、それだけとも限りません。
「想念観察 (3)」では想念観察のやり方をご紹介し、そのポイントの一つとして「善悪の判断を加えない」ということをご説明しました。
そのような態度で自分自身を観察してみると、毎日は変化しているようですが、案外、自分の行動・感情・思い・思考のパターンはある程度決まっているものだと気づかされます。私自身もそれなりの年齢なので、最近は「若い頃から変わらないなあ、進歩がないなあ」と自分自身に対してあきれています。
この先をどうするのか
観察を続けて自分の思いのクセ・パターンにも気づきました。その先をどうするのか、そのことがわからず悩み、いろいろヒントを求めて情報収集に努め、また自問自答した時期がありました。
ひたすらデータは蓄積されていくが、そのデータをどう活かすのか、それがわからないということです。これは冒頭に書いた「想念観察の目的は何か」ということとも関係します。
少し長くなりそうなので、この続きは次回の記事で書いていきます。
想念とはどのようなものか、それらを観察するとはどういうことかを考察してきました。つぎに想念観察の効果、想念観察を続けていくとどうなるのか、その先に何があるのかといったあたりを考えてみます。
「考察:スピリチュアルなテーマ」の中では単に世間で知られている情報を整理してお伝えするということではなく、できるだけ自分なりの実践の中で感じたことや体験してきたことを交えて記事を書いています。ですので、書けることも限られてはいるのですが、皆様の何かの参考になれば幸いです。
想念観察の一番のポイントは感覚器官を通じて知覚した外の世界を観察するのではなく、自分の心というスクリーン上に現れるさまざな思い=想念を観察の対象としている点です。
観察するには何か目的があるはずなのですが、結局のところ、想念観察は何のために行うものなのでしょうか。続けると何か効果や功徳があるのでしょうか。
今回と次回はこの点をテーマにして書いてみます。
「もう一人の自分」という感覚の芽生え
外の世界を観察する場合には「観察対象」と「観察者」を常に意識します。「天体を観測しましょう」と言われれば、観察の対象は夜空の星であり、誰がいつ、どのような方法で観察するのか、そういったことを明確にした上で実際の観察を行うはずです。
一方、内なる世界、つまり自分の心の中を観察する場合には「観察者」という意識はあまりないかもしれません。多分、観察者が自分自身であるということが当たり前すぎるので、意識されないのです。
たとえば、誰かと言い争いをして、相手を傷つけるような言葉を言ってしまったとします。時間が経ってから、「あんなひどいことを言うべきではなかった」と自己反省をするようなことがあったとします。このように自分自身を振り返るということは日常的に行っているはずですが、そこに「観察者」という意識はほとんど無いのではないでしょうか。
想念観察という行為があることを知り、しばらくそれを続けてみて最初に芽生えた感覚は「自分を観察しているもう一人の自分がいる」という不思議な感覚でした。不思議といっても神秘的ということではなく、上に書いた例のように、今まで無意識に行っていた行為を「自分を観察者の立場において、自分自身を観察する行為」として明確に意識するようになったということです。
もし想念観察という言葉と出会わなければ、この「もう一人の自分」という感覚は自分の中に芽生えなかったような気がします。
そして、「もう一人の自分」は何者なのか、これも探求すべき重要なテーマではあるのですが、これについては、また別の記事として考察していくつもりです。
自分の思いのクセ・パターンに気づく
想念観察を続けていくとだんだんと自分というものがわかってきます。
人に「あなたは・・な人ですね」と性格やクセを指摘された経験があると思いますが、人に言われるまでもなく、自分で自分がわかってきます。人間関係で気づかされることが一番多いのですが、それだけとも限りません。
・他人から上から目線で言われると、ものすごく反発を感じるこんな具合です。
・どこへ旅行しても、少し高い丘のような場所からぼんやりと町を眺める、そういう時間が一番好きだ
・音楽はアップテンポなものより、スローなものが心地よい
・「今日は何時から仕事だ」、そう思っただけで憂鬱な気分になることが多い
・大空をながめていると、とても開放的な気分になる
・はじめに全体の予定を知らされないとイライラしてくる
「想念観察 (3)」では想念観察のやり方をご紹介し、そのポイントの一つとして「善悪の判断を加えない」ということをご説明しました。
そのような態度で自分自身を観察してみると、毎日は変化しているようですが、案外、自分の行動・感情・思い・思考のパターンはある程度決まっているものだと気づかされます。私自身もそれなりの年齢なので、最近は「若い頃から変わらないなあ、進歩がないなあ」と自分自身に対してあきれています。
この先をどうするのか
観察を続けて自分の思いのクセ・パターンにも気づきました。その先をどうするのか、そのことがわからず悩み、いろいろヒントを求めて情報収集に努め、また自問自答した時期がありました。
ひたすらデータは蓄積されていくが、そのデータをどう活かすのか、それがわからないということです。これは冒頭に書いた「想念観察の目的は何か」ということとも関係します。
少し長くなりそうなので、この続きは次回の記事で書いていきます。
2012-03-02 17:26
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