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想念観察 (3) [考察:スピリチュアルなテーマ]

「想念観察 (1)、(2)」では「想念」自体について説明しましたが、次に「想念を観察する」とはどういうことか考えてみます。

「想念を、自分を客観的な第三者の立場に置いて、ひたすら観察するのが想念観察」と先の記事でも書いたのですが、具体的には「自分は今、○○という想念を発している」ということを、自分自身を第三者的な立場から眺めるということです。自分自身の心の動きを常時モニターする行為と言ってもよいかもしれません。

言われてみれば簡単なことですが、いくつかポイントがあるように思います。このあたりは実践する人によって違いもあると思いますので、私自身の実践方法としてご紹介します。

(1)可能な限り習慣化する

想念観察は「時々、気が向いたときに行う」ということではその効果を感じにくいと思います。想念観察実践の目的の一つには「エゴが日常生活の中でどのように振舞っているか」を知ることにあります。ですから、可能な限り、起きている時間に発生する全想念をモニターするぐらいの心構えで行うのが望ましいのです。

私自身が想念観察を続けていく中でわかってきたのですが、無数の想念の中でも特に注意を払う、警戒すべき想念というのはある程度決まっています。それはその人固有の想念パターンであり、裏返せば本人のエゴの表れです。その人の「考え方のクセ」でもあります。

「想念観察 (1)、(2)」で想念の種類と想念の源泉・ソースについて列挙してみました。想念パターンとの関連で言うと
想念の種類のうち、感情と思考
想念の源泉・ソースのうち、自分自身の過去の記憶と他人の想念
が特に注意を払う、警戒すべき想念のように思います。日常生活ではこれらの想念が大半を占めて、繰り返し発生しています。まあ、あくまで私の場合にはということですが。

想念観察の目的は観察を通じて、この事実にまず自分自身が気づくことです。

(2)想念を発した直後、その場、その瞬間に行う

想念観察をいつ行うかについては、1日が終わり就寝前に今日1日を思い出しながら行うという方法も紹介されています。それも一つの方法だと思いますが、1日に発生する想念は膨大な数になるはずです。それを後から思い出すというのは私には難しいし、作業自体が煩わしく感じます。

それに代わって、何か(安定した状態から)心に感情や思考の波が立ったら、その都度それらを観察するという方法を用いています。これは富士山や福島原発の状態を24時間定点観測しているライブカメラのような状態に自分をセットしておくということです。

波が立ったら「今私は○○の状態にある」と心の中でつぶやく感じです。起きている間中、そのような観察をするのは大変なことのように思うかもしれませんが、習慣化してしまえばどうということもありません。慣れの問題です。「そんなの無理だ」というのも典型的なエゴに起因する一つの想念に過ぎません。

(3)発した想念に対して分析したり、善悪の判断を加えない

想念観察のポイントは、捉えた感情や思考について、その場で「この悲しみの原因は何なのだろうか」というような分析、「このような怒りの感情がこみ上げてくるのは良くないことではないか」というような善悪の判断を加えないことです。

なぜかというと、そのような分析や判断もエゴが生み出す想念の一種に過ぎないからです。想念観察の目的は自分の中でエゴがどのように振舞っているのか、その現状把握が目的なので、ただひたすら観察に徹するだけでよいのです。

話は少し横道に入るのですが、自分が持っている物事に対する判断基準・価値基準、今の時代はこれらを疑ってみることを求められているように感じます。

それらの基準は自分の本心が納得したうえで定めた基準なのか、それとも単に教育や社会制度の中を通じて他人から植えつけられたものをそのまま受け入れているだけの基準なのか、冷静に自分自身に対してメスを入れてみる必要がありそうです。

かなり社会に洗脳されている部分も多い気がするのです。それに気づくための方法の一つが想念観察かもしれません。

(4)メモをとることについて

想念観察をライブカメラのように常時行う状態にすれば、必ずしも観察結果のメモ・記録を残す必要はありません。しかし、ある程度観察が進んでくると、次第に自分自身のエゴのパターンがわかってくるようになります。

たとえば、「私は人から○○という言われ方をされるといつもイライラしてくる」というような定型パターンのようなものです。

そういったパターンに気づき、それをしっかりと認識する手段としてメモを残したいという気持ちが自然に湧き上がってきたのであれば、メモをとるのはよいことです。その作業を通じて自分自身を深く知るきっかけになるはずです。逆に言えば、メモをとることを日課のような義務にする必要はないということです。

ただし、このメモにも(3)で述べたと同じ理由で分析や判断を書き加えるべきではありません。どこまでも観察結果の記録とそこに現れている傾向という事実の記述にとどめるべきです。


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