想念観察 (2) [考察:スピリチュアルなテーマ]
「気になる」という感覚を大事にする
本当は想念観察に関する考察を先に進めようと思ったのですが、若干前回の記事の補足をしておく必要を感じたので、今回はそのことを書きます。
前回、想念の源泉・ソースとして以下を紹介しました。
列挙したあと「何か説明が足りないような」という気がしたのですが(こういう気持ちも想念です)、そのときは足りない内容が明確でなかったため、そのまま記事を書き終えました。
しかし、今回考察を先に進めようとして、やはり、その部分を補足しておく必要があると強く感じましたので、上記の内容に若干ですが補足説明をさせていただきます。
このように自分の中で「何か気になる」という感覚が生じた場合、その感覚を素直に信頼し、無視しないことはとても大切なことのようです。
特に気になる内容が、自分の生き方そのものに関する内容である場合には、それを無視してしまうと、将来大幅な軌道修正を迫られるような事態に追い込まれることもありえます。そこにも宇宙の法則のようなものが働いていると考えられます。
補足事項 その1
一点は想念の源泉・ソースとして挙げた中の一つ「自分自身の過去の記憶」についてです。
例として「トラウマ」のような極端な例を書いてしまったのですが、これは誤解をまねく書き方でした。確かにドラマでよくあるような「何かをきっかけとして、過去の記憶が蘇る」というケースもあるのですが、本当にお伝えすべきは次のことです。
まず「過去」には今生での記憶、つまり生まれた瞬間から今日に至るまでの過去だけでなく、過去世も含む膨大な記憶も含まれているということです。
次に、今この瞬間に生み出されている想念の大半は「過去の記憶」、具体的には
・体験したさまざまな感情
・経験を通じて形成した思考パターン・思いのクセ・信念・価値基準
等の影響を受けているということです。
言い方を変えれば、物事を見るとき「過去の記憶」というフィルターを通して見ているのです。この膨大な記憶は自分のエゴが長い期間を通して蓄積してきたものといえるでしょう。
エゴの役割は「自分自身を守ること」です。今生も含め、多くの過去世を通じ、エゴがその役割を果たす中で、エゴは多くの記憶を蓄積していきました。俗っぽい表現ではありますが、「未練」や「果たせぬ思い」といったものを残してきたのだと考えられます。
しかし、それらの記憶はあくまで過去の記憶ですから、本当に「今を生きる」のにそれらの記憶が必要かどうかは別問題です。私たちはむしろそれらの記憶に縛られているといえるのです。余談ですが、映画「陰陽師」の中で安部晴明が言っていた「呪(しゅ)」という表現が気に入っているのですが、「呪」の根本はこれらの記憶だと私は思っています。
ちなみに、「別の記事として紹介した「ホ・オポノポノ」ではこれらの不要な記憶を消去する必要があるとしています。
補足事項 その2
補足の二点目は想念の源泉・ソースとして、「自分の本質・魂からのメッセージ」を追加するということです。
この記事の冒頭に書きました「何か気になる」という感覚・印象、あるいは「本当はこうすべきではないか」というような直観・インスピーレーション、これらは明確な前後の因果関係や根拠がなく湧き上がることがあります。
これらの想念の源泉・ソースは、「過去の記憶」というフィルターをかけられた想念ではなく、宇宙の生命の一部である本当の自分、いわゆる魂からのメッセージである場合もあるのです。
人間の本来の生き方は、これらのメッセージを信頼して即行動するだけというとてもシンプルなものであり、考える・判断するという行為は必要最小限でよいようです。それが本当の意味での「自分に素直に」ということです。
考えたり、判断するという行為には過去の情報に基づいているという限界があります。それらに頼っている限り、自分自身を苦しめ、ストレスを溜め込むという悪循環に陥っていきます。特に今のように先の読めない時代の中ではなおさらです。
ホ・オポノポノが不要な記憶の消去の必要性を説くのは、不要な記憶というゴミを溜め込んでいると、こうした自分の本質からのメッセージを受け取りにくくなってしまうからです。パイプが詰まっている状態なので洗浄しましょうといことです。
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ホ・オポノポノ
エゴ
本当は想念観察に関する考察を先に進めようと思ったのですが、若干前回の記事の補足をしておく必要を感じたので、今回はそのことを書きます。
前回、想念の源泉・ソースとして以下を紹介しました。
想念の源泉・ソース
本能的な反応
突然の物音にビックリするなど
自分自身の過去の記憶
「思い出」「トラウマ」のような過去の感情や思考が記憶として再生される場合。
他人の想念
繁華街や電車の中などで疲れやすくなったり、不快な気分になるなど。
自然界との交流
ペットとの交流、自然の中にいると気分が落ち着いたり、何かのひらめきを得たりするなど
物的なエネルギー/物質が保持している記憶
骨董品・古い家屋・古戦場等から感じる、ある種の感情など
肉体を持たない霊的な存在や地球外の生命体の発するメッセージ
霊界通信やチャネリング情報など
列挙したあと「何か説明が足りないような」という気がしたのですが(こういう気持ちも想念です)、そのときは足りない内容が明確でなかったため、そのまま記事を書き終えました。
しかし、今回考察を先に進めようとして、やはり、その部分を補足しておく必要があると強く感じましたので、上記の内容に若干ですが補足説明をさせていただきます。
このように自分の中で「何か気になる」という感覚が生じた場合、その感覚を素直に信頼し、無視しないことはとても大切なことのようです。
特に気になる内容が、自分の生き方そのものに関する内容である場合には、それを無視してしまうと、将来大幅な軌道修正を迫られるような事態に追い込まれることもありえます。そこにも宇宙の法則のようなものが働いていると考えられます。
補足事項 その1
一点は想念の源泉・ソースとして挙げた中の一つ「自分自身の過去の記憶」についてです。
例として「トラウマ」のような極端な例を書いてしまったのですが、これは誤解をまねく書き方でした。確かにドラマでよくあるような「何かをきっかけとして、過去の記憶が蘇る」というケースもあるのですが、本当にお伝えすべきは次のことです。
まず「過去」には今生での記憶、つまり生まれた瞬間から今日に至るまでの過去だけでなく、過去世も含む膨大な記憶も含まれているということです。
次に、今この瞬間に生み出されている想念の大半は「過去の記憶」、具体的には
・体験したさまざまな感情
・経験を通じて形成した思考パターン・思いのクセ・信念・価値基準
等の影響を受けているということです。
言い方を変えれば、物事を見るとき「過去の記憶」というフィルターを通して見ているのです。この膨大な記憶は自分のエゴが長い期間を通して蓄積してきたものといえるでしょう。
エゴの役割は「自分自身を守ること」です。今生も含め、多くの過去世を通じ、エゴがその役割を果たす中で、エゴは多くの記憶を蓄積していきました。俗っぽい表現ではありますが、「未練」や「果たせぬ思い」といったものを残してきたのだと考えられます。
しかし、それらの記憶はあくまで過去の記憶ですから、本当に「今を生きる」のにそれらの記憶が必要かどうかは別問題です。私たちはむしろそれらの記憶に縛られているといえるのです。余談ですが、映画「陰陽師」の中で安部晴明が言っていた「呪(しゅ)」という表現が気に入っているのですが、「呪」の根本はこれらの記憶だと私は思っています。
ちなみに、「別の記事として紹介した「ホ・オポノポノ」ではこれらの不要な記憶を消去する必要があるとしています。
補足事項 その2
補足の二点目は想念の源泉・ソースとして、「自分の本質・魂からのメッセージ」を追加するということです。
この記事の冒頭に書きました「何か気になる」という感覚・印象、あるいは「本当はこうすべきではないか」というような直観・インスピーレーション、これらは明確な前後の因果関係や根拠がなく湧き上がることがあります。
これらの想念の源泉・ソースは、「過去の記憶」というフィルターをかけられた想念ではなく、宇宙の生命の一部である本当の自分、いわゆる魂からのメッセージである場合もあるのです。
人間の本来の生き方は、これらのメッセージを信頼して即行動するだけというとてもシンプルなものであり、考える・判断するという行為は必要最小限でよいようです。それが本当の意味での「自分に素直に」ということです。
考えたり、判断するという行為には過去の情報に基づいているという限界があります。それらに頼っている限り、自分自身を苦しめ、ストレスを溜め込むという悪循環に陥っていきます。特に今のように先の読めない時代の中ではなおさらです。
ホ・オポノポノが不要な記憶の消去の必要性を説くのは、不要な記憶というゴミを溜め込んでいると、こうした自分の本質からのメッセージを受け取りにくくなってしまうからです。パイプが詰まっている状態なので洗浄しましょうといことです。
<関連記事>
ホ・オポノポノ
エゴ
2012-02-16 21:00
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