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死後、「私(セルフ)」という意識はどこへ [考察:スピリチュアルなテーマ]

はじめに

以前から関心があった、というよりも、気になっていたのがこのタイトルの件です。死後の世界がどのようなものか、この点についてはその方面の書物を通して知識として想像できるのです。しかし、私はなぜか死後の世界がどのようなものかということより、死後、今こうして「まいな」として生きている、つまり日々の生活を営み、いろいろなことを考え、感じている主体としての意識はどうなるのか、そちらの方が気になっていました。

各自が持っている「私が、私の、私は…」という感覚、これは一般に意識の中でも「顕在意識」と呼ばれている部分かと思います。この顕在意識が死後消失してしまうなら、今こうして生きている中での「私の」記憶や「私の」思い出、それらは全て消えてしまうのだろうか、そこが疑問だったのです。

顕在意識について

そもそも、意識そのものがどのようなものか、このこと一つにしても、スピリチュアルな方面では様々な情報が伝えられています。それらの比較考察だけでも1冊の本になるのではないかと思うほどです。

私のスタンスは情報の発信源がどこであれ、安直かもしれませんが、その内容に自分が「なるほど」と思えればそれでよしとするというものです。そのスタンスで意識について言えば、今のところ私が一番納得できる情報は、カテゴリー「書棚の中の一冊」で紹介した「波動の法則」に記された意識の説明です。
「波動の法則」による顕在意識の説明

・細胞化、物体化されて肉体の一部になっている。その場所は頭蓋骨の内側
・自分の周囲から情報を集め、自分の体を一人一人が安全に守って維持・管理・運営するのが役割
・生きている限り、その役割にそって行動し、思考し、判断することを繰り返している

この顕在意識は死後どうなるのか、妙なことにこだわるようですが、以前から気になって仕方がなかったのです。瞑想等の修行を通じて高度に覚醒するか、あるいはヘミシンク等の手段で臨死体験でもすればはっきりするのかもしれませんが。

残念ながら「波動の法則」には、顕在意識が死後どうなるのかの説明はありません。肉体の一部ということなので、やはり消失してしまうようですが。

話は先に進みます。

その後、ある女性の方と話をする機会がありました。その方はゲリー・ボーネル氏の伝えるスピリチュアルな教えを学ばれている方です。そして、ボーネル氏はいわゆるアカシック・レコードにアクセスする能力を持った(適切な呼び方かどうかわかりませんが)ヒーラーです。

彼女がボーネル氏の著書を貸してくれたので読んでみたのです。本の中には「ダイアード意識」とか「トライアード意識」とか初めて耳にする言葉が多く、少し面食らってしまいました。それで彼女と会って、さらにいろいろ話を聞いたのでした。

会話の中で私はこの記事のタイトルの件を聞いてみました。彼女の話では「顕在意識は肉体(ダイアード意識)と魂(トライアード意識)が結びついている間だけ存在する意識」というものでした。彼女が本当にそう説明してくれたかどうか、いろいろな話をした中の断片であり正確には覚えておらず、私の勘違いかもしれません。一応、お断りしておきます。

ただその時「そんな考え方もあるのか、ピンとこないけど」という印象だけが強く残ったのでした。それで彼の「アトランティスの叡智」という本を購入し、それはそれで今もゆっくりと読み進めています。

さらに話は先に進みまして、疑問に対する納得できる説明は意外なソースからもたらされました。

それはシルバーバーチという古代霊から伝えられた霊界についての情報を中心とする、いわゆる「スピリチュアリズム」の中にありました。たまたま、スピリチュアリズムの膨大な情報をボランティア精神で提供してくださっているサイトを見つけ、じっくりと目を通してみたのです。

シルバーバーチもスピリチュアリズムも以前から名前だけは知っていました。しかし、私の勝手な先入観に過ぎないのですが、イギリスを中心とするスピリチュアリズムから連想するイメージが、霊媒・エクトプラズム・霊界通信・ポルターガイスト・心霊写真・幽霊等々、テレビの心霊恐怖特集で話題にするようなレベルの研究に過ぎないと思っていたのです。でもこれは私の認識不足だったようです。

まずスピリチュアリズムにおける顕在意識の捉え方です。
スピリチュアリズムによる顕在意識の説明

・人間は霊体と肉体からなる
・霊体の意識が霊的意識、肉体の意識が本能意識である
・霊体が肉体と結合したとき、霊的意識のほんの一部が顕在意識として顕現し、残りは潜在意識として自覚されない状態で存在する

霊的意識の中には過去世の記憶やその意識レベルに応じた膨大な叡智が含まれているが、肉体を持った時点で霊的な成長という目的があって制限がかかっているということです。

以上、私の理解のベースの3つの情報をご紹介しました。私の中ではこの3つの情報の間に表現の違いはあっても、本質的な点での矛盾はないと思っています。

求めていた答え

そして、私が納得した「死後、「私(セルフ)」という意識はどこへ」という問いへの答えは以下のようなものです。
スピリチュアルリズムによる死後の意識の説明

・人の個性は
  霊的総体としての「インディビジュアリティ
  肉体と結合したときの「パーソナリティ
に分けて考えられる
・パーソナリティは現世にしか存在しない。今の自分という意識は死とともに消滅する

私なりの理解では「まいな」は今生きている「まいな」だけであって、前世にも存在しなかったし、もしまた地上に生まれてきたとしても、その来世でも存在しないということです。ちょっと寂しい気もします。

これはパーソナリティの視点からみたときの説明です。インディビジュアリティの視点からみれば、霊的な覚醒のレベルに応じて、何世代にも渡る過去世を思い出すことができるということです。その中の一つの記憶として、「まいな」という名称を思い出すかどうかは別にして、「まいな」として生きたときの記憶も蘇るということのようです。

ここまでの理解を得た段階でふと思いました。インディビジュアリティの視点で過去世を思う時のその感覚についてです。

「今この時点でも、幼少期や青春時代のことを思い出すことができる。しかし、当時と(経験を重ねた)今では自分の顕在意識でさえ同じではありえない。ということは現世の自分(=1パーソナリティ)でさえ、長い目で見れば一瞬一瞬生まれ変わっており、今の自分と同じ自分は過去にも未来にも存在しないのだ」
 
さて、記事の中ではさりげなく書いてきましたが、この答えをずっと捜し求めていた私にとっては、なんだかすごい衝撃です。残りの人生をどう生きていくかについて大きな影響を及ぼすことは確かです。

最後になりますが、このテーマに関連した、ちょっと禅の公案のような言葉を2つご紹介します。今はこの2つの言葉の意味がわかった気がします。

「私は私であるもの」
 旧約聖書出エジプト記第3章より
「私が生きているのではなく、それが私を生きている」
 C・G・ユングがどこからか引用していた言葉

タグ:意識
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