「音のレッスンとは何なのか」:音楽の微分と音(響き)の積分 [体験記:音のレッスン(完)]
はじめに
昨日は都内で「風の歌」のコンサートがありました。私が始めて「風の歌」のコーラスを聞いたのが昨年の5月。まだ震災直後という空気が街中にただよっていた頃でした。そして、このカテゴリーで綴ってきた「音のレッスン」を開始したのが7月。約1年前後経過したことになります。
この間、個人レッスンにせよ、コーラスの練習にせよ、決して多くの回数をこなしてきたわけではありません。それでも1回1回を大切にしてきたし、そこで感じたことを「体験記:音のレッスン」としてこのブログで紹介させていただきました。
ここでブログの記事としては今回を一区切りにしたいと思います。ほぼ1年経ったのでちょうど良い区切りだろうということではないのです。
私が「体験記:音のレッスン」を書いてみようと思い立った動機は最初の記事に書いたとおりなのですが、書いていくうちに気づいたことがあります。それは「私自身にとって音のレッスンとは何なのか」、それを明確にしたかった、それが(潜在的な)本当の動機だったのだろうということなのです。
今それがはっきりした、そういう気がしています。誤解はされないと思いますが、これは私があるレベルに到達した、そういう実感・確信を持ったということではありません。これまで紹介してきたように通常の音楽のレッスンとはかなり様子が異なる音のレッスン、一体これは何のレッスンなのだろう、この疑問に対する自分への答えが見つかった、そういう意味にすぎません。
その答えについてはこれから書いていくのですが、答えが見つかった以上、私としては後は淡々と音のレッスンという道を歩んでいくだけ、これ以上ブログの記事として書くことは何もないだろうと感じたのです。それが「一区切り」の理由です。レッスン日誌のような形式なら書き続けることはできるでしょうが、もともと日記をつけるタイプの人間でもありませんので。
「風の歌」のコーラスの特徴と音のレッスン
何回かのコンサート、あるいはCDを通じて感じる「風の歌」のコーラスの特徴。私が感じるのは極限まで「響き」を追求しており、通常の音楽にある感情表現とかダイナミックス、リズム、そういった要素が潔いほどに切り捨てられている点にあるということです。あくまで私の印象であり、断定しているつもりはありません。
コンサートで歌われる曲は、たとえ原曲が比較的アップテンポのリズミカルな曲であっても、すべてゆったりした調子で、響きの美しさを味わえるような、そのような編曲が施されています。どこまでも「響き」の追求なのです。
この「響き」の追求が普段のレッスンの中ではどのように行われているのでしょうか。詳細はこれまでの記事の中で紹介してきましたので、ポイントだけ書きますと
・徹底的に周囲の音を聴く
・後ろに声を出す
・奥の意識を引き出す
ということです。今振り返ってみても、練習しているのは本当にこのことだけなのです。
「徹底的に周囲の音を聴く」、これも半端ではありません。「じっくりと耳を傾けて音楽鑑賞する」そのような次元ではありません。
適切な例かどうかはわかりませんが、2本の音叉の共鳴現象を想像してみてください。それを人間が行うという感じです。雑念をはさまずにどこまでも相手の音を聴くことに意識を集中していくと、イメージ的に、こちらの脳波も相手の脳波に同調して同じ波形になってくる、そのようなレベルのシビアさなのです。非常な集中力が要求されることで、「言うは易く行なうは難し」です。
「徹底的に周囲の音を聴く」という土台があって、次に「後ろに声を出す」という行為があります。
「後ろに出す」声は普通の歌い方とは多少音質が異なりますが、「○○唱法」のような発声法ではありません。周囲の音・響きを聴きながら、そこに細心の注意を払いながら自分の声も発していく、そういう意識で声を出そうとすると、おのずと「後ろに出す」声にならざるをえないという感じなのです。
お盆/トレンチの上にグラスをのせて歩くという動作を想像してみてください。グラスが空であれば、自由に歩けると思います。しかし、グラスに水が入っていたらどうでしょうか。水をこぼさないように注意を払うし、その分、歩くという動作も慎重になります。その水が表面張力の許すギリギリまで注がれていたらどうでしょうか。歩くという動作はますます慎重にならざるをえないし、困難になってきます。
「お盆/トレンチの上にグラスをのせて歩く」を「徹底的に周囲の音を聴く」、「歩く」を「後ろに声を出す」に読み替えていただくと、「後ろに声を出す」という感覚がわかっていただけるかもしれません。
ところで「お盆/トレンチの上にグラスをのせて歩く」という動作、水がグラスの上部ギリギリまで注がれれば注がれるほど、歩くスピードも遅くなり、いかにも慎重そうに歩いているということになるのでしょうか。
そうとは限りません。練習を重ねていけば案外「きびきびとした」歩き方になるはずです。それを可能にしているのは何なのでしょうか。頭で考える判断・思考ではなく、身体が本来持っている感覚です。人によってはそれが眠っている・錆びついていることもあるかもしれませんが、練習を重ねて引き出すことはできるはずです。
音のレッスンの中では「奥の意識」という表現が用いられますが、これは神秘的なものではなく、練習を通じて引き出し、磨くことができる人間がもともと備えている感覚だと思います。引き出すのに時間は大分かかりそうですが・・・。
音楽の微分と音の積分
さて、私の現時点で考える音のレッスンの特徴は以上のとおりです。当初、このレッスンの実体というか意義・目的が私もよくわかりませんでした。とりあえず、いわゆる音楽教室で行われている音楽のレッスンとは違うようだということで「音のレッスン」としたのです。
今はこの音のレッスンを「音を素材にした意識の集中と弛緩の訓練」と認識しています。その訓練を通じて、「奥の意識」という本能的な感覚を引き出していくのがこのレッスンの目的です。もちろん人によっては別の認識もあるでしょう。
ここで音楽と音の関係です。音楽というと漠然としているので、一つの曲、つまり楽曲とします。ポリフォニーかホモフォニーかの違いはあるでしょうが、楽曲は何か旋律・メロディーを構成する音とその音を支える他の音から成っています。楽譜を縦にみるとそうなっています。それらが時間という流れの中に変化しながら配置されている、それが音楽だと考えています。音楽は時間の進行とともに変化していく音・響きの変化を楽しむ芸術、いわば時間の芸術なのです。
この楽曲には5分くらいの小品もあれば、交響曲のような1時間を越すような大作もあります。自分が「これからこの曲をどのように演奏するか、表現するか」を検討中の演奏家だとします。演奏に先立ち時間のスパン、時間に対する意識をどこに置くかで、その楽曲に対する捉え方も変わってくるはずです。
大作の全体という時間なら、楽章とか組曲等のマクロな楽式の次元で楽曲を捉えます。その大作の第○楽章という時間なら、主題が何でその主題がどのように提示され変化し再現し・・・、そんな風にミクロな楽式の次元で捉えます。さらに時間のスパンを短くしていくと、フレーズとか小節という単位でどう演奏したらよいかを検討するでしょう。さらにスパンを短くすると拍単位、1音(1和音)単位、さらに短くすると・・・。
この「(時間のスパンを)さらに短くすると・・・。」という表現は数学で微分と呼ばれるものです。音楽が時間の芸術だとして、その時間のスパンをどんどん短くして、極限まで持っていく。ここまでいくと、つまり音楽を微分すると、もはや音楽ではなく、音・響きだけが存在する世界です。
音のレッスンは初めからこの世界を対象にしている気がするのです。この世界では(コーラスの)メンバーが発する響きの立ち上がり、ゆらぎながらの持続、減衰、そして次の響きへの移行、どこまでもその変化だけに意識を集中して追っていきます。「意識を絞り込む」という感じです。
「意識」という言葉には受動的な印象があるのですが、むしろ響きという常時変化している対象に向けて、こちらは「意思気:意思という能動的で方向性をもった気」を向け続けている感じで、非常に積極的な行為なのです。
「響きの立ち上がり、ゆらぎながらの持続、減衰」を追っていく感覚を前回の記事では、例えとして戦闘機のファイトシーンでの「ターゲットをロック」という表現を用いました。ターゲットは響き、それに向けている発しているレーダー波が「意思気」です。そして、ロックしながら発するミサイルが自分の声です。
このロックという状態、その中でミサイルを発射すること、もちろんパイロットが手動で敵機を追って操縦桿を動かしいるわけではなく、コンピューターが自動で行ってくれるわけです。当然のことながら私は実体験がないのでわからないのですが、超高速で飛行中に手動でロックすることは難しいのではないかと思います。
相手が響きでも同じです。この極限の時間の世界では「頭で考え判断する」という行為はほとんど介在の余地がありません。先にも書いた「奥の意識」を信頼して委ねるしかないのです。ここでも「言うは易く行なうは難し」ではあるのですが。
話をまとめると、音のレッスンが対象としているのは音楽ではなく、それを微分した極限に現れる響きの世界だということです。その目的は音楽というよりも「奥の意識」という人が本来持っている感覚を引き出し、磨くということです。(あくまで私の解釈です)
ついでに余計なことを言えば、音のレッスンの目的がその1点だけにあるならば、レッスンの素材は少なくともアコースティックな音源(人の声も含みます)であるなら、C→F→G→Cのようなシンプルなカデンツでもグレゴリオ聖歌のようなモノフォニーの楽曲でも何でもいい気もします。
さて、音のレッスンではこのように極微の世界にメスを入れて、そこを丁寧に構築していきます。そして、それらの響きを一つずつ時間の流れの中に順番に配置して重ねていくことが音(響き)の積分であり、その結果が音楽となるのです。「風の歌」のハーモニーは純粋にこの積分操作だけを行った結果の表現であり、先に書いたようなより長い時間スパンでの楽曲の解釈・検討は加えていないピュアなものです。
私にとっての音のレッスン
私にとって音のレッスンはもはや直接には音楽とは関係のない、「音を素材にした意識の集中と弛緩の訓練」です。そして、日常的な「考える」という行為を離れて、こういう訓練の時間を持つことに改めて自分なりの意義を認めています。といっても、音のレッスンに何かを求めたり、期待する感覚はありません。時間的・経済的制約の範囲内ではありますが、これからも音のレッスンは続けていきます。
また、音のレッスンを重ねた結果がその瞬間の美しい響きとなって現れ、それを積分したものが美しい音楽となることは副次的な贈り物でしかありません。それとは別に趣味として音楽も大切にしたいし、いつの日か、近所のピアノ教室に通っているかもしれません。それはそれです。
音のレッスンをある種の瞑想と言うこともできると思います。座禅が固定した対象に意識を向けて座り続ける静的瞑想だとしたら、音のレッスンは常に変化し続ける響きに意識を向けてそこに同調しようとする動的瞑想です。
そして、禅僧にとっての座禅が悟りの境地のような結果を求めるものではなく、「只管打座」、ひたすら日々淡々と行う行為であるように、私にとっての音のレッスンも今はそのような「道」と位置づけています。
昨日は都内で「風の歌」のコンサートがありました。私が始めて「風の歌」のコーラスを聞いたのが昨年の5月。まだ震災直後という空気が街中にただよっていた頃でした。そして、このカテゴリーで綴ってきた「音のレッスン」を開始したのが7月。約1年前後経過したことになります。
この間、個人レッスンにせよ、コーラスの練習にせよ、決して多くの回数をこなしてきたわけではありません。それでも1回1回を大切にしてきたし、そこで感じたことを「体験記:音のレッスン」としてこのブログで紹介させていただきました。
ここでブログの記事としては今回を一区切りにしたいと思います。ほぼ1年経ったのでちょうど良い区切りだろうということではないのです。
私が「体験記:音のレッスン」を書いてみようと思い立った動機は最初の記事に書いたとおりなのですが、書いていくうちに気づいたことがあります。それは「私自身にとって音のレッスンとは何なのか」、それを明確にしたかった、それが(潜在的な)本当の動機だったのだろうということなのです。
今それがはっきりした、そういう気がしています。誤解はされないと思いますが、これは私があるレベルに到達した、そういう実感・確信を持ったということではありません。これまで紹介してきたように通常の音楽のレッスンとはかなり様子が異なる音のレッスン、一体これは何のレッスンなのだろう、この疑問に対する自分への答えが見つかった、そういう意味にすぎません。
その答えについてはこれから書いていくのですが、答えが見つかった以上、私としては後は淡々と音のレッスンという道を歩んでいくだけ、これ以上ブログの記事として書くことは何もないだろうと感じたのです。それが「一区切り」の理由です。レッスン日誌のような形式なら書き続けることはできるでしょうが、もともと日記をつけるタイプの人間でもありませんので。
「風の歌」のコーラスの特徴と音のレッスン
何回かのコンサート、あるいはCDを通じて感じる「風の歌」のコーラスの特徴。私が感じるのは極限まで「響き」を追求しており、通常の音楽にある感情表現とかダイナミックス、リズム、そういった要素が潔いほどに切り捨てられている点にあるということです。あくまで私の印象であり、断定しているつもりはありません。
コンサートで歌われる曲は、たとえ原曲が比較的アップテンポのリズミカルな曲であっても、すべてゆったりした調子で、響きの美しさを味わえるような、そのような編曲が施されています。どこまでも「響き」の追求なのです。
この「響き」の追求が普段のレッスンの中ではどのように行われているのでしょうか。詳細はこれまでの記事の中で紹介してきましたので、ポイントだけ書きますと
・徹底的に周囲の音を聴く
・後ろに声を出す
・奥の意識を引き出す
ということです。今振り返ってみても、練習しているのは本当にこのことだけなのです。
「徹底的に周囲の音を聴く」、これも半端ではありません。「じっくりと耳を傾けて音楽鑑賞する」そのような次元ではありません。
適切な例かどうかはわかりませんが、2本の音叉の共鳴現象を想像してみてください。それを人間が行うという感じです。雑念をはさまずにどこまでも相手の音を聴くことに意識を集中していくと、イメージ的に、こちらの脳波も相手の脳波に同調して同じ波形になってくる、そのようなレベルのシビアさなのです。非常な集中力が要求されることで、「言うは易く行なうは難し」です。
「徹底的に周囲の音を聴く」という土台があって、次に「後ろに声を出す」という行為があります。
「後ろに出す」声は普通の歌い方とは多少音質が異なりますが、「○○唱法」のような発声法ではありません。周囲の音・響きを聴きながら、そこに細心の注意を払いながら自分の声も発していく、そういう意識で声を出そうとすると、おのずと「後ろに出す」声にならざるをえないという感じなのです。
お盆/トレンチの上にグラスをのせて歩くという動作を想像してみてください。グラスが空であれば、自由に歩けると思います。しかし、グラスに水が入っていたらどうでしょうか。水をこぼさないように注意を払うし、その分、歩くという動作も慎重になります。その水が表面張力の許すギリギリまで注がれていたらどうでしょうか。歩くという動作はますます慎重にならざるをえないし、困難になってきます。
「お盆/トレンチの上にグラスをのせて歩く」を「徹底的に周囲の音を聴く」、「歩く」を「後ろに声を出す」に読み替えていただくと、「後ろに声を出す」という感覚がわかっていただけるかもしれません。
ところで「お盆/トレンチの上にグラスをのせて歩く」という動作、水がグラスの上部ギリギリまで注がれれば注がれるほど、歩くスピードも遅くなり、いかにも慎重そうに歩いているということになるのでしょうか。
そうとは限りません。練習を重ねていけば案外「きびきびとした」歩き方になるはずです。それを可能にしているのは何なのでしょうか。頭で考える判断・思考ではなく、身体が本来持っている感覚です。人によってはそれが眠っている・錆びついていることもあるかもしれませんが、練習を重ねて引き出すことはできるはずです。
音のレッスンの中では「奥の意識」という表現が用いられますが、これは神秘的なものではなく、練習を通じて引き出し、磨くことができる人間がもともと備えている感覚だと思います。引き出すのに時間は大分かかりそうですが・・・。
音楽の微分と音の積分
さて、私の現時点で考える音のレッスンの特徴は以上のとおりです。当初、このレッスンの実体というか意義・目的が私もよくわかりませんでした。とりあえず、いわゆる音楽教室で行われている音楽のレッスンとは違うようだということで「音のレッスン」としたのです。
今はこの音のレッスンを「音を素材にした意識の集中と弛緩の訓練」と認識しています。その訓練を通じて、「奥の意識」という本能的な感覚を引き出していくのがこのレッスンの目的です。もちろん人によっては別の認識もあるでしょう。
ここで音楽と音の関係です。音楽というと漠然としているので、一つの曲、つまり楽曲とします。ポリフォニーかホモフォニーかの違いはあるでしょうが、楽曲は何か旋律・メロディーを構成する音とその音を支える他の音から成っています。楽譜を縦にみるとそうなっています。それらが時間という流れの中に変化しながら配置されている、それが音楽だと考えています。音楽は時間の進行とともに変化していく音・響きの変化を楽しむ芸術、いわば時間の芸術なのです。
この楽曲には5分くらいの小品もあれば、交響曲のような1時間を越すような大作もあります。自分が「これからこの曲をどのように演奏するか、表現するか」を検討中の演奏家だとします。演奏に先立ち時間のスパン、時間に対する意識をどこに置くかで、その楽曲に対する捉え方も変わってくるはずです。
大作の全体という時間なら、楽章とか組曲等のマクロな楽式の次元で楽曲を捉えます。その大作の第○楽章という時間なら、主題が何でその主題がどのように提示され変化し再現し・・・、そんな風にミクロな楽式の次元で捉えます。さらに時間のスパンを短くしていくと、フレーズとか小節という単位でどう演奏したらよいかを検討するでしょう。さらにスパンを短くすると拍単位、1音(1和音)単位、さらに短くすると・・・。
この「(時間のスパンを)さらに短くすると・・・。」という表現は数学で微分と呼ばれるものです。音楽が時間の芸術だとして、その時間のスパンをどんどん短くして、極限まで持っていく。ここまでいくと、つまり音楽を微分すると、もはや音楽ではなく、音・響きだけが存在する世界です。
音のレッスンは初めからこの世界を対象にしている気がするのです。この世界では(コーラスの)メンバーが発する響きの立ち上がり、ゆらぎながらの持続、減衰、そして次の響きへの移行、どこまでもその変化だけに意識を集中して追っていきます。「意識を絞り込む」という感じです。
「意識」という言葉には受動的な印象があるのですが、むしろ響きという常時変化している対象に向けて、こちらは「意思気:意思という能動的で方向性をもった気」を向け続けている感じで、非常に積極的な行為なのです。
「響きの立ち上がり、ゆらぎながらの持続、減衰」を追っていく感覚を前回の記事では、例えとして戦闘機のファイトシーンでの「ターゲットをロック」という表現を用いました。ターゲットは響き、それに向けている発しているレーダー波が「意思気」です。そして、ロックしながら発するミサイルが自分の声です。
このロックという状態、その中でミサイルを発射すること、もちろんパイロットが手動で敵機を追って操縦桿を動かしいるわけではなく、コンピューターが自動で行ってくれるわけです。当然のことながら私は実体験がないのでわからないのですが、超高速で飛行中に手動でロックすることは難しいのではないかと思います。
相手が響きでも同じです。この極限の時間の世界では「頭で考え判断する」という行為はほとんど介在の余地がありません。先にも書いた「奥の意識」を信頼して委ねるしかないのです。ここでも「言うは易く行なうは難し」ではあるのですが。
話をまとめると、音のレッスンが対象としているのは音楽ではなく、それを微分した極限に現れる響きの世界だということです。その目的は音楽というよりも「奥の意識」という人が本来持っている感覚を引き出し、磨くということです。(あくまで私の解釈です)
ついでに余計なことを言えば、音のレッスンの目的がその1点だけにあるならば、レッスンの素材は少なくともアコースティックな音源(人の声も含みます)であるなら、C→F→G→Cのようなシンプルなカデンツでもグレゴリオ聖歌のようなモノフォニーの楽曲でも何でもいい気もします。
さて、音のレッスンではこのように極微の世界にメスを入れて、そこを丁寧に構築していきます。そして、それらの響きを一つずつ時間の流れの中に順番に配置して重ねていくことが音(響き)の積分であり、その結果が音楽となるのです。「風の歌」のハーモニーは純粋にこの積分操作だけを行った結果の表現であり、先に書いたようなより長い時間スパンでの楽曲の解釈・検討は加えていないピュアなものです。
私にとっての音のレッスン
私にとって音のレッスンはもはや直接には音楽とは関係のない、「音を素材にした意識の集中と弛緩の訓練」です。そして、日常的な「考える」という行為を離れて、こういう訓練の時間を持つことに改めて自分なりの意義を認めています。といっても、音のレッスンに何かを求めたり、期待する感覚はありません。時間的・経済的制約の範囲内ではありますが、これからも音のレッスンは続けていきます。
また、音のレッスンを重ねた結果がその瞬間の美しい響きとなって現れ、それを積分したものが美しい音楽となることは副次的な贈り物でしかありません。それとは別に趣味として音楽も大切にしたいし、いつの日か、近所のピアノ教室に通っているかもしれません。それはそれです。
音のレッスンをある種の瞑想と言うこともできると思います。座禅が固定した対象に意識を向けて座り続ける静的瞑想だとしたら、音のレッスンは常に変化し続ける響きに意識を向けてそこに同調しようとする動的瞑想です。
そして、禅僧にとっての座禅が悟りの境地のような結果を求めるものではなく、「只管打座」、ひたすら日々淡々と行う行為であるように、私にとっての音のレッスンも今はそのような「道」と位置づけています。
2012-06-16 11:52
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