ハーモニー感覚とは:分離唱・純正律・不協和音 (1) [体験記:音のレッスン(完)]
はじめに
適切な記事タイトルがみつからなくて、とりあえずこのところ気になっていた言葉を書き並べてみました。書きたいのはこれらの概念の関係みたいなことです。
自分で書いておきながら何なのですが、本当に個人的な関心の域を出ないテーマです。皆様の時間を無駄にしないために初めにお断りしておきます。(何を言っているかわからなければ無視して読み飛ばしてくださいということです。)
私が学んでいる「音のレッスン」のベースになっているのは分離唱です。故佐々木基之氏が提唱し、そのお弟子さんだった鍋島先生がそれを引き継いで伝えてくださっています。
とはいっても、これまでご紹介してきたように「音のレッスン」では分離唱を前面に出しているわけではなく、鍋島先生が佐々木先生とは別に独自に培ってきたレッスン上の工夫や問題意識もあり、現在は音楽にとどまらず、我々が声を出す時の各自の意識の在り方にまで踏み込んだ指導をされています。それが結果として、「後ろに声を出す」とか「回転数を上げる」という独特な指導方法につながっているのでしょう。
ですので私の主観に過ぎませんが、鍋島先生が大切にされているのは分離唱という練習方法そのものではなく、その背後にある音楽やハーモニーに対する思いであり、その点が佐々木氏と共通する点だろうと思います。
その共通点の一つに「ピュアなハーモニー」というのがある気がします。佐々木氏の著書を読んでも、また、分離唱をベースにしたハーモニーを紹介している方々のブログを読ませていただいても、それを感じます。
そこで、この記事で書きたいことは何かといいますと、
・ピュア=美しい響きを追求していく分離唱と、同じく美しいとされる純正律の関係
・ピュアではないと思われる不協和音との関係
・結局、音のレッスンで学んでいるハーモニー感覚とは何なのか
のようなことなのです。
分離唱と純正律
正確な定義は楽典とか音響学の本にお任せするとして、まず音律について説明します。西洋音楽では1オクターブの音域を12の音を分割しています。その中から任意の数の音を選んで、それらを低→高の音の高さの順に並べれば音階ができあがるわけです。
ここで問題は12の音を分割するその方法です。分割するとは見方を変えると12の各音の高さ・周波数を決めることで、この規則を音律といいます。
基準の音を440ヘルツのラとすると、1オクターブ上のラは880ヘルツという2倍の周波数の音になります。この間に12の音を割り当てるのですが、通常私たちが用いている音律では、隣り合う音同士の周波数の比率を一定にしようという考えにもとづいています。
その比率は12回掛けると2(倍)になる比率であり、数式では12√2(2の12乗根)で表され、割り切れない数値(約1.05946309・・・)です。ラ音が440ヘルツならラ♯は約約466.164ヘルツとなります。
このように端数には目をつぶって概ね隣り合う音同士の周波数の比率を平均的にみれば一定になるように12分割するのが平均律とよばれる音律です。平均的にというのは裏を返せば、あるいは厳密に言えば上の数値を12回掛けても880にはならないのだが・・・ということです.
平均律は現在普通に用いられている音律ですが、一つ問題があります。ピアノでドミソの和音を弾いて注意深く聞くとわかるのですが、かなり「うなり」が生じてしまうことです。「音が濁っている」といってもよいでしょう。言い方を変えればピュアなハーモニーではないわけです。
そこで12の音を均等に分割するのではなく、各音の高さを微調整してなるべく「うなり」を生じさせないような音律を考えてみるのです。いくつかの音律がありますが、その代表として純正律がよく取り上げられます。純正律の細かい話に関心のある方は各自で調べていただくとして、要は「音律によって同じ和音を弾いても、響き・ハーモニーのピュアさ=うなりの程度が変わってくる」ということです。
私の関心は、分離唱の訓練を通じて生まれるハーモニーは純正律のハーモニーと同等なものなのかということです。もし同等であれば、あらかじめシンセサイザー等で純正律のハーモニーを作成しておき、それをお手本にしながら耳をひらいていくという、分離唱に変わる練習方法も考えられるはずです。
一つ言えることは、どの音律であれ100%ピュアなハーモニーを奏でる音律は存在しないということです。そもそも、そういう完璧な音律があれば平均律という妥協の産物が登場することもなかったでしょう。
純正律で言えば、
・調ごとにチューニング(各音の高さ)は異なる。つまり調の数だけ純正律は存在する。だから、ハ調できれいに響く(同じ鍵盤の)ドミソの和音でも、他の調用にチューニングしてしまえば濁ってしまう
・たとえ純正律でも、ドミソのようにきれいに響く和音とレファラのように濁る和音が存在する
という点は避けられません。
一方、分離唱のハーモニーは特定の音律に依存しているとは思えないし、結びつけて考えるのは無理があると考えます。
分離唱のハーモニーは耳の感覚、鍋島先生の表現で言えば、耳を通じて入ってくる周囲の音に対して「奥の意識」に自分を委ねて、それらに調和する音を出す、コーラスのメンバー全員がそのような態度で声を出すことで生まれるハーモニーです。どこまでもピュアな世界です。
純正律でなくても特定の音律をベースに分離唱のハーモニーを追っていくのは本末転倒で、分離唱のハーモニーが結果として特定の音律のハーモニーに近似しているに過ぎないのです。
分離唱のハーモニーの感覚を体得する時間はかかりますが「音のレッスン」のような練習方法を通じてしか身に付かないような気がします。
ついでに言えば、この感覚を体得するのに絶対音感のように自分の中に絶対的な音の高さの基準を持ってしまうと、かえってそれが邪魔をするかもしれません。絶対音感保持者に聞いたことはないので確かなことは言えませんが。
適切な記事タイトルがみつからなくて、とりあえずこのところ気になっていた言葉を書き並べてみました。書きたいのはこれらの概念の関係みたいなことです。
自分で書いておきながら何なのですが、本当に個人的な関心の域を出ないテーマです。皆様の時間を無駄にしないために初めにお断りしておきます。(何を言っているかわからなければ無視して読み飛ばしてくださいということです。)
私が学んでいる「音のレッスン」のベースになっているのは分離唱です。故佐々木基之氏が提唱し、そのお弟子さんだった鍋島先生がそれを引き継いで伝えてくださっています。
とはいっても、これまでご紹介してきたように「音のレッスン」では分離唱を前面に出しているわけではなく、鍋島先生が佐々木先生とは別に独自に培ってきたレッスン上の工夫や問題意識もあり、現在は音楽にとどまらず、我々が声を出す時の各自の意識の在り方にまで踏み込んだ指導をされています。それが結果として、「後ろに声を出す」とか「回転数を上げる」という独特な指導方法につながっているのでしょう。
ですので私の主観に過ぎませんが、鍋島先生が大切にされているのは分離唱という練習方法そのものではなく、その背後にある音楽やハーモニーに対する思いであり、その点が佐々木氏と共通する点だろうと思います。
その共通点の一つに「ピュアなハーモニー」というのがある気がします。佐々木氏の著書を読んでも、また、分離唱をベースにしたハーモニーを紹介している方々のブログを読ませていただいても、それを感じます。
そこで、この記事で書きたいことは何かといいますと、
・ピュア=美しい響きを追求していく分離唱と、同じく美しいとされる純正律の関係
・ピュアではないと思われる不協和音との関係
・結局、音のレッスンで学んでいるハーモニー感覚とは何なのか
のようなことなのです。
分離唱と純正律
正確な定義は楽典とか音響学の本にお任せするとして、まず音律について説明します。西洋音楽では1オクターブの音域を12の音を分割しています。その中から任意の数の音を選んで、それらを低→高の音の高さの順に並べれば音階ができあがるわけです。
ここで問題は12の音を分割するその方法です。分割するとは見方を変えると12の各音の高さ・周波数を決めることで、この規則を音律といいます。
基準の音を440ヘルツのラとすると、1オクターブ上のラは880ヘルツという2倍の周波数の音になります。この間に12の音を割り当てるのですが、通常私たちが用いている音律では、隣り合う音同士の周波数の比率を一定にしようという考えにもとづいています。
その比率は12回掛けると2(倍)になる比率であり、数式では12√2(2の12乗根)で表され、割り切れない数値(約1.05946309・・・)です。ラ音が440ヘルツならラ♯は約約466.164ヘルツとなります。
このように端数には目をつぶって概ね隣り合う音同士の周波数の比率を平均的にみれば一定になるように12分割するのが平均律とよばれる音律です。平均的にというのは裏を返せば、あるいは厳密に言えば上の数値を12回掛けても880にはならないのだが・・・ということです.
平均律は現在普通に用いられている音律ですが、一つ問題があります。ピアノでドミソの和音を弾いて注意深く聞くとわかるのですが、かなり「うなり」が生じてしまうことです。「音が濁っている」といってもよいでしょう。言い方を変えればピュアなハーモニーではないわけです。
そこで12の音を均等に分割するのではなく、各音の高さを微調整してなるべく「うなり」を生じさせないような音律を考えてみるのです。いくつかの音律がありますが、その代表として純正律がよく取り上げられます。純正律の細かい話に関心のある方は各自で調べていただくとして、要は「音律によって同じ和音を弾いても、響き・ハーモニーのピュアさ=うなりの程度が変わってくる」ということです。
私の関心は、分離唱の訓練を通じて生まれるハーモニーは純正律のハーモニーと同等なものなのかということです。もし同等であれば、あらかじめシンセサイザー等で純正律のハーモニーを作成しておき、それをお手本にしながら耳をひらいていくという、分離唱に変わる練習方法も考えられるはずです。
一つ言えることは、どの音律であれ100%ピュアなハーモニーを奏でる音律は存在しないということです。そもそも、そういう完璧な音律があれば平均律という妥協の産物が登場することもなかったでしょう。
純正律で言えば、
・調ごとにチューニング(各音の高さ)は異なる。つまり調の数だけ純正律は存在する。だから、ハ調できれいに響く(同じ鍵盤の)ドミソの和音でも、他の調用にチューニングしてしまえば濁ってしまう
・たとえ純正律でも、ドミソのようにきれいに響く和音とレファラのように濁る和音が存在する
という点は避けられません。
一方、分離唱のハーモニーは特定の音律に依存しているとは思えないし、結びつけて考えるのは無理があると考えます。
分離唱のハーモニーは耳の感覚、鍋島先生の表現で言えば、耳を通じて入ってくる周囲の音に対して「奥の意識」に自分を委ねて、それらに調和する音を出す、コーラスのメンバー全員がそのような態度で声を出すことで生まれるハーモニーです。どこまでもピュアな世界です。
純正律でなくても特定の音律をベースに分離唱のハーモニーを追っていくのは本末転倒で、分離唱のハーモニーが結果として特定の音律のハーモニーに近似しているに過ぎないのです。
分離唱のハーモニーの感覚を体得する時間はかかりますが「音のレッスン」のような練習方法を通じてしか身に付かないような気がします。
ついでに言えば、この感覚を体得するのに絶対音感のように自分の中に絶対的な音の高さの基準を持ってしまうと、かえってそれが邪魔をするかもしれません。絶対音感保持者に聞いたことはないので確かなことは言えませんが。
タグ:分離唱
2012-03-29 15:57
コメント(2)
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平均律の説明が適切でなかったので訂正させていただきました。このような記事にちゃんと目を通してくださる方がいらっしゃる、嬉しい限りです。
by まいな (2012-03-29 23:13)
佐々木基之氏発案のレッスンを受けていらっしゃる方はそう多くはないので、ここで書かれてることは貴重なことだとは思います。
しかし、鍵盤調律法としての純正律の話を持ってくると何か混乱を招く感じもします。
レファラが濁るというのは、ピタゴラスコンマの割り振りの都合の話で
鍵盤楽器での調律では何らかの歪がでるので仕方ありませんが、
アカペラコーラスではそうした制約はもともとないのではないでしょうか。
また、分離唱って、うまくいっているときは、ただ気持ちよいというだけで
自分が何をやっているか意識が飛んでしまっていて、その状態を
文章化するっていうことが難しくはありませんか。
意識的にハーモニーにハマる音を追及したりしたとたんに
何か違うものになってしまったりして、文章化はなかなか難しく感じます。
結局のところ、佐々木基之先生の著書を図書館で借りるなどして読むのが
分離唱を理解するには一番の近道かもしれません。
by エガル (2013-02-12 20:58)