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後に声を出す (1) [体験記:音のレッスン(完)]

はじめに

前の記事で「(意識の)回転数をあげる」という表現についてご説明しましたが、今回は先生がよく使うもう一つの表現「後に声を出す」という表現について書いてみます。

この言葉はなかなか奥の深い言葉に思えます。今の時点での私の理解についてご紹介しますが、私自身が今後さらに音のレッスンを積み重ねる中で、多分新たな気づきもあるでしょう。

「後に声を出す」という言葉について、先生は「もちろん音はのど・口を通じて出すものなので、前から出ているには違いないのですが、口が首の後ろについている気持ちで声を出してください」と指示されます。

これはどういう意味でしょうか。物理的な音だけに注目していてはさっぱり意味がわからないでしょう。先生がおっしゃているのは多分、「声を出すときの意識」についてなのだろうと私なりに理解しています。

日常での意識の使い方

これから書くことは私の自己観察の結果(というほど大袈裟なものではありませんが)です。

「後に声を出す」の逆は「前に声を出す」のはずであり、それは普段特に意識することのない、日常的な意識の使い方であろうと考えました。

そこで私は「それでは普段の声の出し方、つまり前に声を出している状態とはどのようなものだろうか」と思い、しばらくの間、そのことに注意を向けてみました。

同じ音楽を素材にして、テレビやCDで聞く音楽に一緒に歌詞を口ずさんだり、カラオケで歌うとき、自分はどんな意識で歌っているのだろう。そのようなことは当たり前すぎて今まで考えたこともなかったのですが、しばらくの間、その時の自分自身を観察してみたのです。

この観察を始める時点で音のレッスンも受けており、「何が違うのか」の比較の基準らしきものがあったので、改めて気づいたことがいくつかありました。

結果はとても主観的なものなので、皆様にうまく伝わるかどうかわかりませんが、自分なりに気づいたことは次のようなことでした。

(1)歌のバックで流れている伴奏は聞いているようで聞いていない。聞いているには違いないが、ストリングス・リズム・キーボード等、一つ一つの楽器の音色やそれらが織りなすハーモニーを注意深く聞いているわけではなく、全体を漠然と「一塊の伴奏」として聞いているだけ。

(2)いわゆるサビの部分で、多少、伴奏にも注意を向け、自分の声とのハーモニーに注意を向けている

(3)伴奏と「自分(の声)」、どちらが主役かといえば明らかに「自分(の声)」、伴奏はどこまでも伴奏であり、「従」である。

一言でいえば、「単に自分に酔っているだけ、自己を主張しているだけ」ということになります。別の表現を使うとすれば、「日常の行為・動作には無意識のうちに自動化されているものが多くある」ということに気づいたのです。何を自動化しているかというと、自分を出すこと/自分を表現することです。

この観察を始める時点で音のレッスンも受けていたので、同じ「歌う」という行為でも意識の使い方は対照的であることに気づけたような気がします。

ここでは音楽を素材にして自分自身を観察してみたのですが、この結果は日常生活のかなり広い範囲についてあてはまることではないかと思います。このことは私にとって大きな収穫です。

自動化のレベルの問題

話を先に進めましょう。ポイントは「自動化のレベル」です。芸事でいえば「パフォーマンスのレベル」でしょうか。

少し横道にそれてしまうのですが、昔読んだ能楽師の世阿弥が著した「風姿花伝」のことを思い出しました。その中に有名な言葉かと思いますが、「時分の花」「まことの花」という言葉があります。

時分の花」は少年期に現れる若さゆえの素晴らしい芸のパフォーマンス。それは素晴らしいけれど、成長とともに消えていくもの。「まことの花」は日々の弛まぬ稽古の積み重ねで獲得した高い実力・パフォーマンス。

「風姿花伝」にはこの「まことの花」の境地を目指して、幼少の頃から老年に至るまでどのような心がけで稽古すべきかが説かれています。

鍋島先生がおしゃっていることではありませんが、私には
 カラオケでの意識の使い方=時分の花
 「風の歌」(先生の主催するコーラス団体の名称)のコーラスでの意識の使い方=まことの花
に思えます。

話をもとに戻します。

探求していたのは「後に声を出す」の意味であり、それは物理的な声の出し方の問題ではなく、意識の使い方の問題だろうということでした。

そこで、改めて普段何気なく音楽に合わせて歌っているときの自分の意識を観察してみたのでした。そして、「案外無意識に歌っているのだなあ」ということを再認識しました。さらに「歌う」という行為だけでなく、日常生活全般で無意識的な動作・行為が大半を占めていることにも気づかされました。

この無意識な歌い方で高いパフォーマンスが発揮されるならそれでよいのですが、そうではないから音のレッスンのような特別な時間を割いて自己を訓練する必要があるということになります。

「高いパフォーマンス」という言葉ですが、私は
 「聞いている人の深部にまで響く音が出せるかどうか」
 「人の心の奥底にまで響くようなエネルギーを発することができるかどうか」
を判断の基準と考えています。

これは微妙に「美しいか」「感動するか」「酔えるか」とは違うようです。

この「高いパフォーマンス」は「後に声を出す意識」から生まれるのだろうと現時点では理解しています。このことは記事を改めて書きます。

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タグ:意識
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