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ホ・オポノポノ (4) [考察:スピリチュアルなテーマ]

100%自分の責任ということ

ホ・オポノポノを考える上で、「4つの言葉」あるいは広くクリーニング・ツール以上に重要と思われるのは、「人生に起きる出来事は100%自分の責任である」という考え方です。

スピリチュアル系の教えの中では、同種の考えがいろいろな表現で伝えられています。思いつくままに挙げてみます。

 ・人は今生でどう生きるか、人生の計画を持って生まれてきた
 ・運命は100%決まっている
 ・意識が全てを決定する、プログラムしている
 ・この3次元の世界は霊的な成長をめざして学ぶ教室である

「人生に起きる出来事は100%自分の責任である」というのもこれらの言葉と深い関連があるでしょう。

さて、この言葉のポイントは「100%」という点で、例外はありません。

「これは私のせいではない、あの人の責任だ」、「これは偶然である」「不慮の事故だった」といったことは一切認めない、全ては自分が決めたことだということであり、ある意味厳しい言葉です。

この言葉を理解するには、あるいは、受け入れる下地を作るためにはホ・オポノポノに限らず、先ほど挙げたようなスピリチュアル系の教えに関心を持つことが必要かもしれません。

私自身のことをお話します。

この言葉自体はホ・オポノポノ関係の書物等では必ず紹介されている内容であり、私も頭では理解したつもりになって、さらりと読み流していました。

ところが、ある時から「この言葉にはすごい深い意味がある」と感じ始めたのです。特別何かの出来事がきっかけになったということはなく、たまに自分のこれまでの人生を振り返ってみるうちに、気づきが深まってきたという感じです。

今では、この言葉を受け入れた人と受け入れない人では、その人のその後の人生の歩みは大きく異なるような気さえします。

この言葉を受け入れたとき、「悟りの瞬間」のような劇的なイベントこそ何もありませんが、人生が静寂に満ちているような感覚に変わってきました。

ホ・オポノポノとの関係

同時に、私のホ・オポノポノに対する理解と実践も新たなステップに移ったように感じます。何に対して、また、どういう時にホ・オポノポノを行うのか、クリーニングするのかという点についてです。

とてもシンプルな結論なのですが、気が付く限り、可能な限り、自分を取り巻く全てのことが対象ということです。全てのこととは本当に「全て」であり、たとえばテレビのニュースで外国での戦争の一場面を見たとしたら、それもクリーニングの対象です。

この戦争の例で言えば、自分がその戦争の当事者として責任を負うのかどうかという表面的なことが問題なのではありません。前世以前も含めた自分の過去に何かそういう場面を見せられる原因があるから、たまたまであってもそういうニュースを見てしまうのだ、そう考えるということです。

前の記事で「問題とは何か」について書きましたが、人生に起こる出来事が全て自分の責任だとするなら、問題とならない対象は存在しない、少なくとも、一応全てが問題と疑ってかかるのが望ましいという結論になります。

だから全てクリーニング、寝ても覚めてもクリーニングというのが「ホ・オポノポノ・ライフ」だといえます。記憶違いかも知れませんが、ヒューレン博士の「人生はクリーニング、他にやることはない」という意味がわかったような気がします。

ホ・オポノポノに追われる毎日、考えようによってはかなり忙しくなりますね。だから、ホ・オポノポノを日常の習慣にして、潜在意識に手伝ってもらうことも必要でしょう。

また、ホ・オポノポノ関係ではあまりふれられていないようですが、「自分の想念を観察する」ということも重要な作業だと考えています。

「出来事・現実は結果であり、意識の世界の投影に過ぎない。意識の世界で作られた青写真の一部が現実として3次元世界に発生する」という考え方があります。私はこの考え方を支持しています。

だから、クリーニングの本当の対象は意識の中にある青写真なのです。その青写真、設計図が「不要な記憶」によって歪められている可能性が大だから、まずクリーニングが必要になるのです。

その意識自体を観察するのが「想念観察」です。私はホ・オポノポノのプロセスの一部として違和感なく用いています。

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