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体を通しての学び:壁を越えた瞬間の思い出 [その他の話題]

これから書くことは、最後に何か締めの一言を書けるわけではありません。今後探求してみたいテーマの材料としてメモしておこうというだけです。

体を通して何かを体得する、学ぶというプロセスには、何か頭を使って理解していくのとは違うものがあると思うのです。

知的行為での「インスピレーション」「一瞬のひらめき」に相当するものでしょうか。「知らぬ間に壁を越える」「一瞬で次元が変わる」、あるいは「元から違う次元に立っている」という不思議な感覚で、その体験を忘れることができません。

わずかですが、これまでの人生の中でのそんなプチ体験を挙げてみます。

自転車の補助輪をはずした日

小学校低学年のとき、父に自転車を買ってもらいました。最初は補助輪を付けてもらい、ある期間乗っていました。

そのうち、補助輪が邪魔に感じるようになります。補助輪があるとカーブの動きも制限されるし、わずらわしく思い始めます。

そして、ここがポイントなのですが、ある日ふと「補助輪がなくても乗れるのではないか」そんな気がしたのです。

普通は補助輪をはずした後も、しばらくは親に後ろを支えてもらいながら、右に左にフラフラしながら、少しずつまっすぐ進める距離・時間が長くなる。そういう段階を経るのではないでしょうか。

私の場合、そういう段階を経ずに、ある日乗れる気がしたら本当に乗れたのです。他の子供はどうなのかわかりませんが、私にはその瞬間が不思議な体験の記憶として忘れられないのです。

ちなみに、手放し走行の技能は両手を放して乗れる時間を少しずつ長くしていくという、オーソドックスな練習で習得しました。

百発百中のおはじき

これは小学生の頃、はやっていた遊びです。女の子のやる「おはじき」とは少し違うと思いますが、どんな名前のゲームだったか思い出せません。「コイン落とし」?

ただ、2人がテーブルの両端にコインを置いて、自分のコインを親指や人差し指の爪ではじいて、相手のコインにあててテーブルから落とすだけのゲームです。

これだけのゲームですから、あらたまって練習したことなどありません。不思議なのは、「あたるか・あたらないか」とか「距離が遠いな」といった感覚がほとんどなかったことです。

ただ、「相手のコインを見つめて、そこに向けてコインをはじく」、どこか達人の境地みたいですが、ほんとにそういう透明で単純な感覚になりきれて、事実ほぼ百発百中だったのです。距離は関係なかったのです。

当時もなぜそういう気持ちで臨めたのか不思議でしたし、今も不思議な体験の記憶として焼きついています。

名曲の恩恵:モーツアルト

高校生のときの体験です。私は音楽自体は好きでしたが、学校の音楽の授業は嫌いでした。好きだったのはレコード鑑賞の時間ぐらいでした。リコーダーが苦手で、実技試験の成績もパッとしませんでした。

そんなある日、いつも楽しみしていたFMのクラシック番組があり、たまたまモーツァルトの「 フルート協奏曲第2番」が流れていました。

その第1楽章が妙に気に入り、録音したテープを何度も何度も聞きました。そのうち、自分でも吹いている気分になり、息遣い等を真似たりして。

その間、リコーダーを手に取ったりすることは1度もありません。もともとリコーダーの演奏技術向上の参考にという気持ちではなく、単純に好きで聴いていただけですから。

それから、学期末の試験でまたリコーダーの実技試験があり、家でも練習を始めました。びっくりしたのはいつの間にかビブラート奏法ができるようになっていたのです。

以前、先生にも「ビブラートをかけて演奏できればもう少し点数もあげられるのだけどねー」と言われ、技術的な興味もあり練習はしてみたのですが、思うようにはいかなったのです。

それがモーツアルトを聞いただけで、何の練習もすることなく、身に付いていたのです。壁を越えた瞬間は知らぬ間にやってきたのです。

その後、細部の調整みたいな感じでそれなりの練習はしましたが、実技試験はバッチリでした。

武道の上達

社会人になってから私は長年合気道を続けてきました。その基本練習の中に「推手」という練習があります。本来は中国拳法の練習の一つですが、正しい姿勢をつくり上半身の力を抜くという目的で、たまに練習していました。

実際に行ってみると、続けていくうちに肘や肩が痛くなってきて、「もうだめ」とギブアップしてしまう人が大半です。私も初めはそうでした。二人一組で行う練習ですが、黒帯の相手方は平然とした顔をしています。何が違うのだろう。

この壁を越えた瞬間も練習の積み重ねによるものではないのです。

たまたま武道系の雑誌の中に、ある武道の型を演じている達人の写真がありました。達人の体のどこにも力みを感じさせない自然体の立ち姿に、ただ「美しいなあ」という感じで眺め続けただけのです。

そしてある日、いつものように推手の練習をしていると、以前とは違う感覚があり、肘や肩が痛くなくなることもなくなりました。大げさに言えば、達人の身体感覚が私の体に転写されたというのでしょうか。武道の達人の写真を眺めているうちに、いつの間にか壁を超えていたという感じなのです。

さて、数少ない体験のご紹介は以上です。

「ある日、突然壁を越えていた」という感覚、何か共通点はある気がするのですが、まだ答えはみつかりません。

タグ:身体知
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